‘コニカⅢA’ タグのついている投稿

空白の10年

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年7月14日

リコーオートハーフを買ってもらってから一段と写真熱は燃え上がり、四六時中カメラを持ち歩き、何かにつけて撮影した。しかし今思い出しても、お世辞にも良い写真と言えるものはなかった。「一体何を考えて撮っていたのか?」おそらく何も考えてはいなかった。多分、「何かが写っている」「自分に撮れた」というだけで嬉しかったのだろう。

何を撮ろうとしていたのか

何を撮ろうとしていたのか

小学校6年生も終わりに近づいた頃、ひょんなことから自宅で伝書鳩を飼うことになった。そのうちに、朝に夕に伝書鳩の世話をすることとなる。中学に進むと、クラブ活動で毎日扱かれた。カメラのことはすっかり忘れた。普通に考えると、飼っている伝書鳩を写真に撮るとか考えそうなものだが、そういう気持ちに全くならない(なれない?)のが私の最大の弱点である。中学から大学を卒業するまでの10年、正確に言うと、勤めに出てからの2年を加えた12年間、全く写真を撮らない日が続いた。カメラにもあまり興味を示さなくなっていた。

悪い従兄に苛め抜かれる弟の姿を冷酷にも平然と撮り続けた勘太郎の報道カメラマン魂

悪い従兄に苛め抜かれる弟の姿を冷酷にも平然と撮り続けた勘太郎の報道カメラマン魂

(本当は、写真部の連中が写真を撮ったり、現像したりしているのを見ると、つい話に加わりたくて、部室に遊びに行ったりしていたのだが)当時「文化部の連中=軟派」という偏見に満ちていた自分としては、バスケをやめて写真部に転向する気にもなれず、「その連中に教えを乞うなどは以ての外」という間違った、つまらぬプライドが邪魔をして、私のカメラマンとしてのキャリアは、わずか5年で幕を下ろしたかに見えた。おかげで、大切にしていた「リコーオートハーフS」もその後行方不明となったままである。今になって、機種名もわからないあの初代の愛機、そして2代目の「リコーオートハーフS」が愛おしくて堪らない。

コニカⅢA購入がよほど嬉しかったとみえて、床屋の鏡に映る己の姿を撮影して喜ぶ若き日の親父

コニカⅢA購入がよほど嬉しかったとみえて、床屋の鏡に映る己の姿を撮影して喜ぶ若き日の親父

リコーオートハーフS

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年7月1日

親父がコニカⅢAをいつ頃まで使っていたのかは定かではないが、私が小学校3年生位と思しき写真に、皮ケースに入ったコニカⅢAが確と写っているので、その頃までは間違いなく現役で活躍していたと見られる。しかし、コニカⅢAがテーブルに置いてあるということは、この写真を撮った別のカメラが存在するということで、ひょっとしてそれは、私の初代愛機で写されたものではないかと。一体誰が?弟?いや、彼は今でもこんなに上手くは撮れない。親父だったら自分の愛機を使うのではないか?この場所が一体何処で、誰と何をしに行った時のものなのか?う~ん、写真ってなかなか面白い。

この椅子とテーブルはまるで記憶にない。おそらく家族でどこかに出かけた時のものではないかと。

この椅子とテーブルはまるで記憶にない。おそらく家族でどこかに出かけた時のものではないかと。

小学校5年生になったか、4年生の終わり頃か、親父にねだって新しいカメラを買ってもらった。どこへ行くにもカメラをぶら下げているし、結構それなりに撮れるようになったというありがたいご評価を、親父様からいただけた賜であった。2代目の愛機は「リコーオートハーフ」という機種だった。その名の通りハーフ判であるので、フィルムが倍の枚数撮れる点が、小遣いの少ない自分にとってはこの上なくありがたいものであった。勿論、どうして12枚巻のフィルムで倍の24枚撮れるのか、その真相を突き止めようという野心はさらさら持ち合わせず、只々、倍撮れるということにひたすら感謝する大変素直ないい子であった。さらに、このカメラの特筆すべき点は、自動巻き上げという画期的メカニズムを携えた点にあった。初代愛機は、巻き上げをうっかり忘れた時でも、何の問題もなく写真が写るという代物で、二重写し、三重写しの作品を平気で量産し、フィルムを無駄にしていた。この無駄を撲滅し、尚且つフィルム代半額という快挙をやってのけた「リコー」というメーカー名は「技術のリコー」として、その後永く私の胸に刻まれることとなり、その後の一定期間、私のカメラ選びに大きく影響することとなる。

「リコーオートハーフSE」実はこのカメラ、真の2代目(S)ではなく、10年程前に中古カメラ店@新橋で見つけ、懐かしさのあまり購入したもの(SE)。真の2代目もまた初代愛機同様行方不明となってしまっている。(ゴメンナサイ)

「リコーオートハーフSE」実はこのカメラ、真の2代目(S)ではなく、10年程前に中古カメラ店@新橋で見つけ、懐かしさのあまり購入したもの(SE)。真の2代目もまた初代愛機同様行方不明となってしまっている。(ゴメンナサイ)

ところで、このオートワインダーはどうもゼンマイを動力としていたらしく、カメラの底についた丸いノブを時折ぐりぐりと回してあげる必要があった。つまり、夜店でよく目にしていたシンバルをぶつけ続けるお猿さんと同じようなもので、それが当時カメラとして画期的だったのか、すでに一般的なものであったのかはよく知らないが、とにかく小学校5年生の自分としては、後のα-7000(一眼レフ初のオートフォーカス実用機)誕生に匹敵するほどの衝撃であり、当然そこいら中に見せびらかして回ることとなった。

小学5年生の夏休み 2代目愛機「リコーオートハーフS」による撮影。広島市民球場 巨人vs 広島東洋カープ 試合開始前の練習風景。 この頃私が撮った写真はハーフ判のため全て縦位置。カメラを横に構えるという知恵がなかった。

小学5年生の夏休み 2代目愛機「リコーオートハーフS」による撮影。広島市民球場 巨人vs 広島東洋カープ 試合開始前の練習風景。 この頃私が撮った写真はハーフ判のため全て縦位置。カメラを横に構えるという知恵がなかった。

テメェのことはテメェで…

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年6月28日

『「コニカⅢA型?」について何かご存じの方いらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。』とは言ったものの、「自分のことは自分で…」とのお袋の教え通り、このカメラについていろいろ調べようと思ったら、ネット上で親切に教えてくれている方がおられた。詳しいことはそちらを見ていただくとして、このカメラは1958年製であることが分かった。つまり、私が3歳の頃。ということは、お袋が言っていた「私の花嫁資金で買ってあげた」という証言は、随分怪しいということになる。まあ、お袋のそこら辺のいい加減さというのは今に始まったことではないので、さらっと聞き流し、深く追及はしないが、akahigeさんやnobrin-7さんのブログにあるカメラとは、レンズ(私のは50ミリf1.8)が違うようだし、シャッターの形状もnobrin-7さんの物とは微妙に違うので、ひょっとしたら別バージョンⅢAだったりして..。と、興味がわいてきたので、さらに調べを進めてみようかと。で、見つけました。「カメラ修理人の徒然草」なるブログ。店主様によると、確かにレンズ違いで2バージョン、48ミリf2バージョンと50ミリf1.8バージョンがあったようで、当時の発売価格まで教えてくれていて、48ミリが¥34,900、50ミリは¥37,000とのこと。さすが親父は高いほうを選んだのか、田舎にはこちらしかなかったのか、今となっては真実は闇の中ではあるが、昭和33年の¥37,000が、当時相当貧乏していた親父、お袋にとっていかに大金であったかは、火を見るより明らかで、確かにお袋の花嫁資金にでも手を付けない限り絶対買えないような代物であったことは間違いなく、若かった当時の二人が大枚叩いてこのカメラを買った日のことを思うと、我ながらとても幸せに感じるのであります。

父と母・・・ ワイルドだろ?

父と母・・・ ワイルドだろ?