‘リコー’ タグのついている投稿

FF-1とFF-1S

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年8月20日

さて、東京での丁稚生活を終えた私は、営業見習いとして神奈川の某印刷会社に入社した。営業見習いはそこそこに、野球とお酒を充分教えていただいた。ノンプロで活躍された方、甲子園出場組、残念ながら甲子園行けず組等々、草野球とは思えぬレベルのメンバーで、野球もお酒も相当強かった。私が退社するのと入れ替えに、日本ハムファイターズを退団したばかりのK選手が入団、いや、入社してきたことからも、そのレベルが想像できるはず。その頃の栄光の日々も、記録に収めてあるので、ほんの一部だけご紹介しておく。(当然私が撮影したものではない)

川崎工場代表として茨城工場チームに助っ人として招かれた私は、おおいに実力を発揮してチームの大逆転優勝に貢献した。おかげでその日は、会長ご夫妻にも大層喜んでいただき、美味しいお寿司をたらふくご馳走になった。

川崎工場代表として茨城工場チームに助っ人として招かれた私は、おおいに実力を発揮してチームの大逆転優勝に貢献した。おかげでその日は、会長ご夫妻にも大層喜んでいただき、美味しいお寿司をたらふくご馳走になった。

決勝戦、最終回の攻撃。トップバッターとして登場した私は、大逆転の口火を切るセンター前ヒットで出塁。二盗、三盗を成功させ、同点のホームを踏む。勢いづいたチームはその後大逆転。「嗚呼、我が生涯最高の日」

決勝戦、最終回の攻撃。トップバッターとして登場した私は、大逆転の口火を切るセンター前ヒットで出塁。二盗、三盗を成功させ、同点のホームを踏む。勢いづいたチームはその後大逆転。「嗚呼、我が生涯最高の日」

さて、酒と野球を堪能した私は、いよいよ故郷へ錦を飾るべく、母が待つ熊本・玉名へと向かった。が、玉名への道のりは遠く、12月末日付で退社した私は、1月いっぱいを費やし、それまで9年の間、お世話になった都内及び神奈川在住の皆様にそれぞれお会いして、丁重にお別れを述べ、且、飲み、いよいよ2月11日、千葉県柏駅を出発して一路北へ向かった。(不思議と南ではなかった)。仙台→三沢→竜飛崎→蔵王→会津若松→猪苗代→中ノ沢温泉→磐梯熱海温泉→郡山→柴又→浅草寺を経て一旦川崎へ戻り(2月20日)、羽田→調布→鎌倉→三保の松原→舘山寺温泉→神戸→西宮→六甲山→有馬温泉→近江神宮→雄琴温泉→比叡山延暦寺から大阪へ戻り、南港から四国へ渡った。実は、四国で大変悲しい出来事が起こった。愛機「リコーFF-1」が壊れた。永年酷使を続けたことが原因ではなかった。原因は、フィルムの巻き上げ過ぎだった。36枚撮りのフィルムを少しでも多く使えるようにと企てた私は、36枚を過ぎても「巻き上げレバーが動く限り巻き上げ続ける」をモットーとしていた。その「元祖環境保護の精神」が仇となった。力任せに巻き上げたことが原因で、決してリコー製品の造りがチャッチィわけではないことは、ここで明確にしておきたい。ところで皆様、先にご紹介した愛機の写真を覚えておいでだろうか?実はあれ、3代目の愛機ではなく、正式には4代目の愛機、「リコーFF-1S」の写真なのだ。ここまでの撮影は、3代目愛機「FF-1」によるもの。そしてここから、正確には四国桂浜以降が「FF-1S」ということになる。つまり、愛機を壊してしまった私は、すぐさまカメラ屋さんを探した。そして、悩むことなく同じカメラを購入した。如何に私が「リコーFF-1」に惚れ込んでいたかがお分かりいただけると思う。驚いたのは、まだ「カメラのキタムラ」もない時代に、四国の場末の小さな(失礼)カメラ屋さんに、よくこの商品が置いてあったなということだ。しかも私は、緊急のことでもあるし、(こういうお店には到底このカメラは在庫していないだろうと考えた私は)「FF-1」が(正確には「FF-1S」だが)置いてあったということに感激し過ぎて、値切りも忘れてしまい、カメラ屋さんの言い値で購入してしまった。私がお店の言い値でおとなしく購入するということは、あまりない。これまでの生涯に確か2度位か?私は、壊れた愛機と、買ったばかりの愛機を携え、旅を続けることとした。

3代目の愛機「FF-1」。当然修理をし、使えるようにはなったが、弟嫁がカメラが欲しいと言ったので、あげてしまった(できれば返してほしいのだが、言えなかった)。「FF-1S」には、対物レンズの横に小窓があり、[FF-1S]の文字が。

3代目の愛機「FF-1」。当然修理をし、使えるようにはなったが、弟嫁がカメラが欲しいと言ったので、あげてしまった(できれば返してほしいのだが、言えなかった)。「FF-1S」には、対物レンズの横に小窓があり、[FF-1S]の文字が。

言・行不一致

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年8月7日

愛機を手にうきうきと店を出た。ふと、新人君を見やると、何やらふて腐れたご様子。おや?と思って訳を聞いてみると、どうも私の行動がお気に召さぬらしい。ははぁ、なるほど、「俺だけ新品カメラを買ってにやついているのが気に入らんのだな」と思いきや、さにあらず。人には「ピント合わせ不要で、自動巻き上げ、予算4万円以内」という条件を出しておきながら、私がしゃぁ、しゃぁと、「目測によるピント合わせ、手動巻き上げ」のマニュアル製品を選んでしまったことに、大変な憤りを感じているらしい。実は言われて初めてそのことに気づいた。そう言えば、そうだった。「技術のリコー」の輝く後光の前に、すっかり我を忘れていた。言うこととやることがまるで違う。これではまるで、どこかの政治家と同じではないか。ま、しかし、しょうがない。なんせ「三つ子の魂、百までだから」、などと根拠もなく気を取り直した。事実このカメラを買ったことに後悔は全くなかった。

最近のカメラでは、絶滅危惧種に指定されつつある「巻き上げレバー」。新人君には、「ピンと合わせ不要で、自動巻上げ」と注文を出したにもかかわらず、我を忘れて「手動」を選択。新人君の怒りを買ってしまった。

最近のカメラでは、絶滅危惧種に指定されつつある「巻き上げレバー」。新人君には、「ピンと合わせ不要で、自動巻上げ」と注文を出したにもかかわらず、我を忘れて「手動」を選択。新人君の怒りを買ってしまった。

新人君に対しては、(こんな処にまで付き合わせて)「ちょっと悪いことをした」と思った。写真学科卒業の彼としては、それなりの主張もあったらしい。反面、でかい図体をして「細かいことにいつまでもこだわりやがって、九州男児の風上にも置けぬ奴だ」と、気合を入れてやろうかとも思ったが、寮のボスとしては、安定した政権維持のためにここはぐっと呑み込んで、新人君の機嫌を取る作戦に出ようと考え、ビールを奢った。彼は殊の外喜んだ。案外買収には弱いタイプと見た。「これではまるで、どこかの政治家と同じではないか。」と、再度自戒しながらも、今後の政権運営を考え、ビールに続き日本酒に刺身までつけた。アルコールは少量でもまわりの早い奴らしく、すぐに、「死ぬまで先輩について行きます」みたいなことを言い出した。なかなかに燃費のいい奴で嬉しかった。「長期政権も夢ではないと思った。」当時、寮にはこの新人君のほかに九州から来た奴が二人いたが、こいつらはなかなかに燃費の悪い奴らで、特に鹿児島から来たM君などは、燃費が悪いうえに喧嘩っ早くて、後始末にいつも往生していたので、この新人君の温厚な性格と燃費の良さはとても重宝であった。(M君については、お話ししたいことが山ほどありますが、諸事情によりすべて割愛させていただきます)

愛機の購入が実現したので、早速撮影した。最初の被写体に選抜されたのは、大学時代の親友F氏。彼とは本当によく飲んだ。彼のお宅にもよく呼んでいただき、お母さんに散々ご馳走になった。彼は武道の達人で、寮にクーデターの兆しがある折には、武力制圧に力を貸してくれて、政権維持の一番の功労者であった。

愛機の購入が実現したので、早速撮影した。最初の被写体に選抜されたのは、大学時代の親友F氏。彼とは本当によく飲んだ。彼のお宅にもよく呼んでいただき、お母さんに散々ご馳走になった。彼は武道の達人で、寮にクーデターの兆しがある折には、武力制圧に力を貸してくれて、政権維持の一番の功労者であった。

カメラマン勘太郎の復活②

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年7月29日

この燃えるような後光によって正常な判断力を失ってしまった私は、すでに、「とにかくこのカメラを買う」モードに突入しきっていた。その時私に残されていたのは「少しでも値切る」という、生まれついての本能だけであった。本人はよく覚えていないが、その日連れていた九産大出身の新人君の証言によると、「ああ言えば、こう言う」ヨドバシの店員さんを相手に、カメラの知識もないくせに、粘りに粘って、まるで何者かに取り憑かれたような形相で値切っていたらしい。私が言うことの半分以上は、訳の分からぬことであったらしいが、「このカメラが欲しい」「少しでも安く」「何ならただでもいい」という熱意だけは、この結末を見届けようと取り囲んでいた周囲の皆さん方にも充分伝わっていたらしい。交渉を始めて一時間弱、私としては相当不満も残りはしたが、こちらが折れに折れて?無事交渉はまとまり、私は、十数年ぶりに愛機を手にした。いくらで買ったかは、よく覚えていないが、ケース、ストラップ、ストロボを付けてもらって、3万ちょい払ったような気が・・・。「カメラマン勘太郎の復活」であった。3代目の愛機は、「三つ子の魂、百まで」の教え通り、やはりリコーの製品だった。

レンズはリケノン35m f2.8 蓋を開けるとレンズが飛び出す、ミノックス35型と同じ感動的メカニズム。

レンズはリケノン35m f2.8 蓋を開けるとレンズが飛び出す、ミノックス35型と同じ感動的メカニズム。

収納時はフラットに。携帯電話と比べてもこの通り、当時としては超コンパクト&超軽量

収納時はフラットに。携帯電話と比べてもこの通り、当時としては超コンパクト&超軽量

空白の10年

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年7月14日

リコーオートハーフを買ってもらってから一段と写真熱は燃え上がり、四六時中カメラを持ち歩き、何かにつけて撮影した。しかし今思い出しても、お世辞にも良い写真と言えるものはなかった。「一体何を考えて撮っていたのか?」おそらく何も考えてはいなかった。多分、「何かが写っている」「自分に撮れた」というだけで嬉しかったのだろう。

何を撮ろうとしていたのか

何を撮ろうとしていたのか

小学校6年生も終わりに近づいた頃、ひょんなことから自宅で伝書鳩を飼うことになった。そのうちに、朝に夕に伝書鳩の世話をすることとなる。中学に進むと、クラブ活動で毎日扱かれた。カメラのことはすっかり忘れた。普通に考えると、飼っている伝書鳩を写真に撮るとか考えそうなものだが、そういう気持ちに全くならない(なれない?)のが私の最大の弱点である。中学から大学を卒業するまでの10年、正確に言うと、勤めに出てからの2年を加えた12年間、全く写真を撮らない日が続いた。カメラにもあまり興味を示さなくなっていた。

悪い従兄に苛め抜かれる弟の姿を冷酷にも平然と撮り続けた勘太郎の報道カメラマン魂

悪い従兄に苛め抜かれる弟の姿を冷酷にも平然と撮り続けた勘太郎の報道カメラマン魂

(本当は、写真部の連中が写真を撮ったり、現像したりしているのを見ると、つい話に加わりたくて、部室に遊びに行ったりしていたのだが)当時「文化部の連中=軟派」という偏見に満ちていた自分としては、バスケをやめて写真部に転向する気にもなれず、「その連中に教えを乞うなどは以ての外」という間違った、つまらぬプライドが邪魔をして、私のカメラマンとしてのキャリアは、わずか5年で幕を下ろしたかに見えた。おかげで、大切にしていた「リコーオートハーフS」もその後行方不明となったままである。今になって、機種名もわからないあの初代の愛機、そして2代目の「リコーオートハーフS」が愛おしくて堪らない。

コニカⅢA購入がよほど嬉しかったとみえて、床屋の鏡に映る己の姿を撮影して喜ぶ若き日の親父

コニカⅢA購入がよほど嬉しかったとみえて、床屋の鏡に映る己の姿を撮影して喜ぶ若き日の親父

リコーオートハーフS

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年7月1日

親父がコニカⅢAをいつ頃まで使っていたのかは定かではないが、私が小学校3年生位と思しき写真に、皮ケースに入ったコニカⅢAが確と写っているので、その頃までは間違いなく現役で活躍していたと見られる。しかし、コニカⅢAがテーブルに置いてあるということは、この写真を撮った別のカメラが存在するということで、ひょっとしてそれは、私の初代愛機で写されたものではないかと。一体誰が?弟?いや、彼は今でもこんなに上手くは撮れない。親父だったら自分の愛機を使うのではないか?この場所が一体何処で、誰と何をしに行った時のものなのか?う~ん、写真ってなかなか面白い。

この椅子とテーブルはまるで記憶にない。おそらく家族でどこかに出かけた時のものではないかと。

この椅子とテーブルはまるで記憶にない。おそらく家族でどこかに出かけた時のものではないかと。

小学校5年生になったか、4年生の終わり頃か、親父にねだって新しいカメラを買ってもらった。どこへ行くにもカメラをぶら下げているし、結構それなりに撮れるようになったというありがたいご評価を、親父様からいただけた賜であった。2代目の愛機は「リコーオートハーフ」という機種だった。その名の通りハーフ判であるので、フィルムが倍の枚数撮れる点が、小遣いの少ない自分にとってはこの上なくありがたいものであった。勿論、どうして12枚巻のフィルムで倍の24枚撮れるのか、その真相を突き止めようという野心はさらさら持ち合わせず、只々、倍撮れるということにひたすら感謝する大変素直ないい子であった。さらに、このカメラの特筆すべき点は、自動巻き上げという画期的メカニズムを携えた点にあった。初代愛機は、巻き上げをうっかり忘れた時でも、何の問題もなく写真が写るという代物で、二重写し、三重写しの作品を平気で量産し、フィルムを無駄にしていた。この無駄を撲滅し、尚且つフィルム代半額という快挙をやってのけた「リコー」というメーカー名は「技術のリコー」として、その後永く私の胸に刻まれることとなり、その後の一定期間、私のカメラ選びに大きく影響することとなる。

「リコーオートハーフSE」実はこのカメラ、真の2代目(S)ではなく、10年程前に中古カメラ店@新橋で見つけ、懐かしさのあまり購入したもの(SE)。真の2代目もまた初代愛機同様行方不明となってしまっている。(ゴメンナサイ)

「リコーオートハーフSE」実はこのカメラ、真の2代目(S)ではなく、10年程前に中古カメラ店@新橋で見つけ、懐かしさのあまり購入したもの(SE)。真の2代目もまた初代愛機同様行方不明となってしまっている。(ゴメンナサイ)

ところで、このオートワインダーはどうもゼンマイを動力としていたらしく、カメラの底についた丸いノブを時折ぐりぐりと回してあげる必要があった。つまり、夜店でよく目にしていたシンバルをぶつけ続けるお猿さんと同じようなもので、それが当時カメラとして画期的だったのか、すでに一般的なものであったのかはよく知らないが、とにかく小学校5年生の自分としては、後のα-7000(一眼レフ初のオートフォーカス実用機)誕生に匹敵するほどの衝撃であり、当然そこいら中に見せびらかして回ることとなった。

小学5年生の夏休み 2代目愛機「リコーオートハーフS」による撮影。広島市民球場 巨人vs 広島東洋カープ 試合開始前の練習風景。 この頃私が撮った写真はハーフ判のため全て縦位置。カメラを横に構えるという知恵がなかった。

小学5年生の夏休み 2代目愛機「リコーオートハーフS」による撮影。広島市民球場 巨人vs 広島東洋カープ 試合開始前の練習風景。 この頃私が撮った写真はハーフ判のため全て縦位置。カメラを横に構えるという知恵がなかった。