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いつの世も、人は自分の望む方に誤解する

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年10月10日

仕事でカメラを使い始めた私が最初に遭遇した壁は、手持ちレンズが28~135㎜のズームレンズ一本では、現場の状況次第で被写体が画面に入りきれないことが多々発生したことだ。「仕事に生かすために、もう少しワイドレンズが欲しい」。これが私の大義名分であった。そんなある日、(当時カメラ屋さんがあると、当てもなく店を覘く癖のついていた)私は「カメラの○☓」に立ち寄った。そこで、ミノルタの24~50㎜f4.0という代物を発見した。当時、28~135㎜のサイズと重量に少なからず辟易していた私は、焦点距離はさておき、このレンズのサイズと重量にすっかり魅了された。初めて手にした一眼レフにたまたま装着されていた重くてデカいレンズしか知らず、友人「f」により、「一眼レフってこんなもの」と思い込まされていた私にとって、この24~50㎜f4.0の質素で静かな佇まいは物凄く新鮮なものであった。長い間、何となく自分が思い描いていた「カメラのサイズ感、重量感」であった。このレンズを、愛機α9000に装着し、左肩にぶら下げて歩く己が姿を想像した。しかも、自分にとって一番重要なこと、「安かった」。確か、三万円でおつりがきたのではなかったか?財布を見た。金はあった。私の脳に埋め込まれた電卓はもう計算を始めていた。次の「肥後○▽コン*リ-ト様」のカタログ写真をこいつで物にすれば、レンズ代はすぐに元が取れる」と。別にこのレンズでなくても、従来の28~135㎜で撮った写真で何の問題もないのだが。「このレンズで撮った写真は、きっと素晴らしい写真に違いない」。根拠もなく、すっかり納得する自分がいた。嗚呼、いつの世も「人は自分の望む方に誤解する」のであった・・・。当然、すぐにそのレンズはゲットした。すでに私は沼に片足填まりかけていた。

表向きは、仕事上もっとワイドなレンズが必要ということで買った、24~50㎜f4.0。28~135㎜は値段も結構高く、当時としてはいいレンズであったらしいが、正直私には、写りの違いはよく解らなかった。今なら、単焦点レンズを買うんだろうが、その頃、そういう知恵はなかった。

表向きは、仕事上もっとワイドなレンズが必要ということで買った、24~50㎜f4.0。28~135㎜は値段も結構高く、当時としてはいいレンズであったらしいが、正直私には、写りの違いはよく解らなかった。今なら、単焦点レンズを買うんだろうが、その頃、そういう知恵はなかった。

芸は身を助ける?

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年9月27日

「α9000」で第2のカメラマン人生をスタートさせた私であったが、6年を経ても写真技術は一向に向上せず、無為なカメラマン人生を送っていた。仕事柄プロのカメラマンさんとの交流も多く、元来研究熱心な私は、いろいろなことを貪欲に学び取ろうとする姿勢だけは大いに発揮しつつも、なかなか結果を残せずにいた。それでも努力の結果、実績は伴わずとも、一端に知識だけは蓄積していき、加えて、元来備わっている印刷の知識が融合し、次第に「口だけ達者なカメラマン」が出来上がりつつあった。これは、印刷・出版業界の末席を汚す私としては、時に商売上、この上もないメリットを生むことがあった。「手振れ」や「露出」、「被写界深度」もこの頃学んだ。知識が増えると、さすがに撮れる写真も微妙に以前とは変わっていった。少しはましな写真が撮れる確率も微妙に上がり、経済的にも随分助かった。当時はまだデジカメは一般的ではなく、当然私もフィルムを使っていたので、確率が上がったことでフィルム代も現像代もぐんと節約できるようになった。それにも増して私を喜ばせたのは、カメラマンさんに支払う撮影代の節約が可能になったことであった。当時、印刷物を制作する際に必要な写真は、クライアント様から支給される以外は、必ずプロのカメラマンさんにお願いしていた。この費用が半端ではなく、時に撮影代、ン十万円、印刷代、8万円なんてこともあり、まるでカメラマンさんのために営業しているようだと揶揄されることも度々であった。そこで、この現状を打破するために私は決心した。「自分で撮ろう」と。人物や動き物はさすがに無理があるので、端から除外した。さらに、ライティングが必要と思われる物は、機材もノウハウもないのでパスした。マクロレンズは持ってないので、その類もNO。つまり「自然光で撮れる静止物」に限定した。ありがたいことに、その頃私が扱う物件のうち9割近くはこの範疇に属した。これまで、1点2~3万円も要していた撮影代が、1点に対し仮に36枚撮りフィルム1本費やしたとしても、現像代込みで1,500円で収まるようになった。フィルム1本で製品2点撮れれば、1点あたり750円。3点撮れれば、1点当たり500円であった。これは画期的出来事であった。しかも大抵の場合、カメラマンさんからは、撮影料+出張費まで請求されていたので、この差は想像を絶するものであった。「写真を5点程ものにすれば、レンズ1本タダ」くらいの勢いで、私の機材への投資欲は徐々に高まり、やがて終わりのないレンズ沼、ボディ沼へと身を沈めていくことなど、この時の私は知る由もなかった。(つづく)

本日の教訓:皆さん、手振れ防止には三脚を使いましょう。特に静止物には効果絶大。知らず知らずのうちに、フレーミングも慎重になります。

*自分で撮影した写真を使って制作させていただいた印刷物の一部。福岡、小国、八女、菊池、矢部の通潤橋、南関町、菊水町(現和水町)、宮崎、阿蘇的石、甲佐、耶馬溪、山鹿、等々、現場は各所に渡り、通常、出張費だけでも莫大な金額になるところをおおいに節約して、クライアント様にも大変喜んでいただいた。

*自分で撮影した写真を使って制作させていただいた印刷物の一部。福岡、小国、八女、菊池、矢部の通潤橋、南関町、菊水町(現和水町)、宮崎、阿蘇的石、甲佐、耶馬溪、山鹿、等々、現場は各所に渡り、通常、出張費だけでも莫大な金額になるところをおおいに節約して、クライアント様にも大変喜んでいただいた。

手振れにご注意

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年9月19日

事実上世界初、オートフォーカス一眼レフカメラ「α9000」をゲットし、「第2のカメラマン人生」をスタートさせた私であったが、悲しいかなカメラの知識も、まして撮影に関する知識は皆無であった。私は、オートフォーカスでカメラがピントを合わせてさえくれれば、どんな場合でもピントの合った、きれいな写真が撮れると信じ込んでいた。「手振れ」も「被写体振れ」も言葉さえ知らなかった。露出の概念も、シャッタースピードも、順光も逆光も意識すらしていなかった。とにかく、カメラがすべてやってくれると信じていた。最初は喜んで使っていたが、何せこれまでの愛機、リコーの「FF-1S」に比べれば、重い、でかい、目立つの三重苦であった。そのうち、できあがってくる写真を見てふと気づいた。「ろくな写真が撮れていない」。「おかしい」と感じた研究熱心な私は、従来の愛機、リコー「FF-1S」で撮った写真と比べてみた。圧倒的に、「FF-1S」で撮った写真のほうが歩留まりがよかった。私は発見した。「このカメラ(α)は壊れている」。私はすぐに友人「f」を呼びこう言った。「すぐに交換しろ」「f」はすぐに機材を引き取ってくれた。そして暫くしてまた私の所へやってきてこう言った。「カメラは、正常だった。おかしいのは、お前の撮り方だ」と。 俄には信じがたい話であったが、同じカメラで「f」が撮った写真を見せられ、且つ、いささか講義を受けて、納得せざるを得なかった。私はその時初めて「手振れ」なるものの存在を学習した。

本日の教訓:皆さん「手振れ」には充分ご注意を!ボケ写真の原因のほとんどは、「手振れ」だそうです。

その頃私がα9000で撮影した写真①

その頃私がα9000で撮影した写真①

その頃私がα9000で撮影した写真②

その頃私がα9000で撮影した写真②

その頃私がα9000で撮影した写真③。ホント、ろくなのがなくてお恥ずかしい。

その頃私がα9000で撮影した写真③。ホント、ろくなのがなくてお恥ずかしい。

ミノルタα-9000

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年9月2日

桂浜公園の坂本龍馬像との対面を果たした私は、親父への感謝のしるしに、坂本龍馬像を買い求め、いざ熊本を目指して車を走らせた。前回お話したように、ここで愛機FF-1を壊してしまった私は、やっとカメラ屋さんにたどり着き、4代目愛機、FF-1Sをゲットし、旅を続けることができた。

(左)FF-1とFF-1Sの説明書。2台持っていた証拠。因みに保証書によれば、土佐清水市の「カメラのフタバ」さんで購入していた。(右)不思議とα-9000の説明書も2冊。こちらは別に2台持っているわけではないが、なぜか2冊?ラインの色が違うのは何故?

(左)FF-1とFF-1Sの説明書。2台持っていた証拠。因みに保証書によれば、土佐清水市の「カメラのフタバ」さんで購入していた。(右)不思議とα-9000の説明書も2冊。こちらは別に2台持っているわけではないが、なぜか2冊?ラインの色が違うのは何故?

 

八幡浜から大分・臼杵へ渡った私は、熊本を目指した割には、なぜか南下をはじめ、その日は津久見の怪しげなホテルに泊まった。都城、鹿児島、霧島、人吉を経由し、やっとこさ故郷玉名へ帰り着いたのは、桜咲き誇る3月下旬であった。関係各位の大歓迎(?)を受けた私は、坂本龍馬像のご利益もあり、無事にA社に就職できた。

A社本社の前庭で今日も安全操業を見守る、親父へのお土産、坂本龍馬像

A社本社の前庭で今日も安全操業を見守る、親父へのお土産、坂本龍馬像

 

仕事にも田舎の生活にもぼちぼち慣れてきたある日、カメラ界を揺るがす一大センセーショナルが沸き起こった。オートフォーカス一眼レフカメラ「α-7000」の出現であった。遠いあの日、東京で夢見て、「技術のリコー」の幻想により忘れかけていた、「ピント合わせ不要で、自動巻き上げ」の呪文が蘇った。久々に、カメラへの執着がむらむらと首を持ち上げた。と言って、特段カメラの知識があるわけでもなく、おまけに日本半周旅行でそれまでの蓄えをすべて使い切っていた私には、所謂「先立つもの」が皆無であり、自力調達は不可能であった。もたもたしているうちに、7000に続き「α-9000」が発売された。矢も盾もたまらず、すぐに友人「f」を呼び出し、彼に極秘ミッションを授けた。それは、ミッション・インポッシブル『「α-9000」及び、想定されるアクセサリーをゲットせよ。金に糸目はつけない、が、支払条件は「ある時払いの催促なし」』というものであった。「α-9000・緊急ゲット大作戦」としては、ナイスなアイデアであった。言い忘れたが、友人「f」は、当時富士フィルム関連の職についており、カメラ調達は、言わば「彼の商売の一環」であった。加えて彼は、人が見向きもしないような法外な課題であればあるほど、意地になってその問題をクリアしようとする、特異な性格の人物で、正にこのミッションには最適の友人あった。当然彼は、後先考えず、あっという間にフル装備で調達してきた。まず、レンズを見て驚いた。天狗様の鼻より立派であった。さらに驚くことに、機材一式の中には大仰な別売カメラストラップをはじめ、レリーズ、レンズクリーニングセット、ブロアーに至るまで、あらゆるものが含まれていて、払いのことを思うと、若干背筋が冷えた(幸い、凍りつくまでにはいたらなかったが・・)。「金に糸目はつけない」は余分であった。「f」の一途な性格を見誤った。至極後悔した。まぁ、先のことはともかく、「カメラマン勘太郎、第2の人生のスタート」であった。

大層なカメラバッグに別売ストラップ、スリックのえらい立派な三脚。今では珍しくもないが、当時としては驚きの、単焦点5本分をカバーする4.8倍標準ズーム(28㎜~135㎜F4-4.5マクロ機能付き)。モータードライブMD-90にバッテリーパックBP-90M、リモートコードRC-1000S、プログラムフラッシュ2800AF、etc。正直使い方はよく解らんし、はっきり言って馬の耳に念仏であった。

大層なカメラバッグに別売ストラップ、スリックのえらい立派な三脚。今では珍しくもないが、当時としては驚きの、単焦点5本分をカバーする4.8倍標準ズーム(28㎜~135㎜F4-4.5マクロ機能付き)。モータードライブMD-90にバッテリーパックBP-90M、リモートコードRC-1000S、プログラムフラッシュ2800AF、etc。正直使い方はよく解らんし、はっきり言って馬の耳に念仏であった。

MD-90とBP-90M。5コマ/秒の優れものであったが、重いやら恥かしいやらで、家の中で格好つけて写真撮る時以外はあまり出番はなかった。36枚巻のフィルムが7~8秒で終わってしまうというのも、私の中では大いに不評であった。

MD-90とBP-90M。5コマ/秒の優れものであったが、重いやら恥かしいやらで、家の中で格好つけて写真撮る時以外はあまり出番はなかった。36枚巻のフィルムが7~8秒で終わってしまうというのも、私の中では大いに不評であった。

 

 

 

FF-1とFF-1S

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年8月20日

さて、東京での丁稚生活を終えた私は、営業見習いとして神奈川の某印刷会社に入社した。営業見習いはそこそこに、野球とお酒を充分教えていただいた。ノンプロで活躍された方、甲子園出場組、残念ながら甲子園行けず組等々、草野球とは思えぬレベルのメンバーで、野球もお酒も相当強かった。私が退社するのと入れ替えに、日本ハムファイターズを退団したばかりのK選手が入団、いや、入社してきたことからも、そのレベルが想像できるはず。その頃の栄光の日々も、記録に収めてあるので、ほんの一部だけご紹介しておく。(当然私が撮影したものではない)

川崎工場代表として茨城工場チームに助っ人として招かれた私は、おおいに実力を発揮してチームの大逆転優勝に貢献した。おかげでその日は、会長ご夫妻にも大層喜んでいただき、美味しいお寿司をたらふくご馳走になった。

川崎工場代表として茨城工場チームに助っ人として招かれた私は、おおいに実力を発揮してチームの大逆転優勝に貢献した。おかげでその日は、会長ご夫妻にも大層喜んでいただき、美味しいお寿司をたらふくご馳走になった。

決勝戦、最終回の攻撃。トップバッターとして登場した私は、大逆転の口火を切るセンター前ヒットで出塁。二盗、三盗を成功させ、同点のホームを踏む。勢いづいたチームはその後大逆転。「嗚呼、我が生涯最高の日」

決勝戦、最終回の攻撃。トップバッターとして登場した私は、大逆転の口火を切るセンター前ヒットで出塁。二盗、三盗を成功させ、同点のホームを踏む。勢いづいたチームはその後大逆転。「嗚呼、我が生涯最高の日」

さて、酒と野球を堪能した私は、いよいよ故郷へ錦を飾るべく、母が待つ熊本・玉名へと向かった。が、玉名への道のりは遠く、12月末日付で退社した私は、1月いっぱいを費やし、それまで9年の間、お世話になった都内及び神奈川在住の皆様にそれぞれお会いして、丁重にお別れを述べ、且、飲み、いよいよ2月11日、千葉県柏駅を出発して一路北へ向かった。(不思議と南ではなかった)。仙台→三沢→竜飛崎→蔵王→会津若松→猪苗代→中ノ沢温泉→磐梯熱海温泉→郡山→柴又→浅草寺を経て一旦川崎へ戻り(2月20日)、羽田→調布→鎌倉→三保の松原→舘山寺温泉→神戸→西宮→六甲山→有馬温泉→近江神宮→雄琴温泉→比叡山延暦寺から大阪へ戻り、南港から四国へ渡った。実は、四国で大変悲しい出来事が起こった。愛機「リコーFF-1」が壊れた。永年酷使を続けたことが原因ではなかった。原因は、フィルムの巻き上げ過ぎだった。36枚撮りのフィルムを少しでも多く使えるようにと企てた私は、36枚を過ぎても「巻き上げレバーが動く限り巻き上げ続ける」をモットーとしていた。その「元祖環境保護の精神」が仇となった。力任せに巻き上げたことが原因で、決してリコー製品の造りがチャッチィわけではないことは、ここで明確にしておきたい。ところで皆様、先にご紹介した愛機の写真を覚えておいでだろうか?実はあれ、3代目の愛機ではなく、正式には4代目の愛機、「リコーFF-1S」の写真なのだ。ここまでの撮影は、3代目愛機「FF-1」によるもの。そしてここから、正確には四国桂浜以降が「FF-1S」ということになる。つまり、愛機を壊してしまった私は、すぐさまカメラ屋さんを探した。そして、悩むことなく同じカメラを購入した。如何に私が「リコーFF-1」に惚れ込んでいたかがお分かりいただけると思う。驚いたのは、まだ「カメラのキタムラ」もない時代に、四国の場末の小さな(失礼)カメラ屋さんに、よくこの商品が置いてあったなということだ。しかも私は、緊急のことでもあるし、(こういうお店には到底このカメラは在庫していないだろうと考えた私は)「FF-1」が(正確には「FF-1S」だが)置いてあったということに感激し過ぎて、値切りも忘れてしまい、カメラ屋さんの言い値で購入してしまった。私がお店の言い値でおとなしく購入するということは、あまりない。これまでの生涯に確か2度位か?私は、壊れた愛機と、買ったばかりの愛機を携え、旅を続けることとした。

3代目の愛機「FF-1」。当然修理をし、使えるようにはなったが、弟嫁がカメラが欲しいと言ったので、あげてしまった(できれば返してほしいのだが、言えなかった)。「FF-1S」には、対物レンズの横に小窓があり、[FF-1S]の文字が。

3代目の愛機「FF-1」。当然修理をし、使えるようにはなったが、弟嫁がカメラが欲しいと言ったので、あげてしまった(できれば返してほしいのだが、言えなかった)。「FF-1S」には、対物レンズの横に小窓があり、[FF-1S]の文字が。

驚愕の烏賊リング事件

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年8月12日

M君についてのお話はすべて割愛させていただくと言ったが、よくよく考えたら、それでは私の東京時代の話は終わってしまいそうなので、当たり障りのなさそうな話をひとつだけ。

私とM君が、東京の某印刷会社で丁稚として汗水垂らしていた冬のある日の夕刻、先輩が「銀座にある、某レストランのクリスマスディナー券」をくださった。聞けば、これがあれば無料で飲み放題、食い放題という代物であった。我々丁稚にとっては、夢のような話だった。ただし、期限は今日まで。しかも、入場は20時まで。二人は、着替えもそこそこに寮を飛び出し、目当ての店を目指した。幸い、銀座までは30分もかからないという驚きくべき立地の寮であったため、何とか20時までに店に滑り込んだ。お店は、無理すれば銀座と言えなくもない微妙な位置の、単に古いという表現では少し物足りないような佇まいをしたビルの地下にあり、田舎者の二人にとっては、充分怪しげな雰囲気であった。しかし、我々には余計なことを考えている時間はなかった。入場制限は何とか切り抜けたものの、閉店時間という次の課題があった。二人は早速料理の確保に走った。店内は薄暗く、若干「鳥目傾向」にある自分には不利なコンディションであったため、必要以上にリキが入った。

同僚M君。とてもいい奴であったが、燃費が悪いことはともかくとしても、向う意気の強いのには参った。彼の行くところ、各所で戦火に見舞われた。

同僚M君。とてもいい奴であったが、燃費が悪いことはともかくとしても、向う意気の強いのには参った。彼の行くところ、各所で戦火に見舞われた。

 

とりあえず、手当たり次第にごっそりと料理をテーブルに並べ、野郎二人のクリスマスディナーが開宴した。するといきなりM君が、「ぶほ」とか「べほー」みたいな、聞いたこともない声を発し、「この烏賊リングは腐っとる」と騒ぎ出した。「食ってみろ」と言われ、食べてみた。確かに烏賊リングにしては妙な味だと思ったが、「腐っとる」は言い過ぎではないかと思った。これではまたいつものように戦闘が始まってしまう。M君はすでにそのモードに突入しかけていた。「お前は、寮長なんだから、そこん処うまく話を纏めろ」という、先日社長からいただいたお言葉を思い出した。過去の戦闘が原因で、二人はすでに何度か厳重注意を受けていた。それでも何とか首が繋がっていたのは、結構真面目に働き、自分と違って器用に業務をこなす、M君の意外な仕事ぶりの賜であった。M君の異様な叫び声に気付き、黒い服を着た、ちょっと強面の方が飛んできた。私は、冷静に訳を話した。すると、その強面のボーイさん(店長?)からは、想像を絶する言葉が返ってきた。「お客様、そのお料理は玉葱のリングフライでございます・・・」

M君はその後、何事もなかったかの如くおおいに飲み、且、食べて、殊の外満足なご様子であった。(カメラには何の関わりもない話でゴメンナサイ)

 

言・行不一致

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年8月7日

愛機を手にうきうきと店を出た。ふと、新人君を見やると、何やらふて腐れたご様子。おや?と思って訳を聞いてみると、どうも私の行動がお気に召さぬらしい。ははぁ、なるほど、「俺だけ新品カメラを買ってにやついているのが気に入らんのだな」と思いきや、さにあらず。人には「ピント合わせ不要で、自動巻き上げ、予算4万円以内」という条件を出しておきながら、私がしゃぁ、しゃぁと、「目測によるピント合わせ、手動巻き上げ」のマニュアル製品を選んでしまったことに、大変な憤りを感じているらしい。実は言われて初めてそのことに気づいた。そう言えば、そうだった。「技術のリコー」の輝く後光の前に、すっかり我を忘れていた。言うこととやることがまるで違う。これではまるで、どこかの政治家と同じではないか。ま、しかし、しょうがない。なんせ「三つ子の魂、百までだから」、などと根拠もなく気を取り直した。事実このカメラを買ったことに後悔は全くなかった。

最近のカメラでは、絶滅危惧種に指定されつつある「巻き上げレバー」。新人君には、「ピンと合わせ不要で、自動巻上げ」と注文を出したにもかかわらず、我を忘れて「手動」を選択。新人君の怒りを買ってしまった。

最近のカメラでは、絶滅危惧種に指定されつつある「巻き上げレバー」。新人君には、「ピンと合わせ不要で、自動巻上げ」と注文を出したにもかかわらず、我を忘れて「手動」を選択。新人君の怒りを買ってしまった。

新人君に対しては、(こんな処にまで付き合わせて)「ちょっと悪いことをした」と思った。写真学科卒業の彼としては、それなりの主張もあったらしい。反面、でかい図体をして「細かいことにいつまでもこだわりやがって、九州男児の風上にも置けぬ奴だ」と、気合を入れてやろうかとも思ったが、寮のボスとしては、安定した政権維持のためにここはぐっと呑み込んで、新人君の機嫌を取る作戦に出ようと考え、ビールを奢った。彼は殊の外喜んだ。案外買収には弱いタイプと見た。「これではまるで、どこかの政治家と同じではないか。」と、再度自戒しながらも、今後の政権運営を考え、ビールに続き日本酒に刺身までつけた。アルコールは少量でもまわりの早い奴らしく、すぐに、「死ぬまで先輩について行きます」みたいなことを言い出した。なかなかに燃費のいい奴で嬉しかった。「長期政権も夢ではないと思った。」当時、寮にはこの新人君のほかに九州から来た奴が二人いたが、こいつらはなかなかに燃費の悪い奴らで、特に鹿児島から来たM君などは、燃費が悪いうえに喧嘩っ早くて、後始末にいつも往生していたので、この新人君の温厚な性格と燃費の良さはとても重宝であった。(M君については、お話ししたいことが山ほどありますが、諸事情によりすべて割愛させていただきます)

愛機の購入が実現したので、早速撮影した。最初の被写体に選抜されたのは、大学時代の親友F氏。彼とは本当によく飲んだ。彼のお宅にもよく呼んでいただき、お母さんに散々ご馳走になった。彼は武道の達人で、寮にクーデターの兆しがある折には、武力制圧に力を貸してくれて、政権維持の一番の功労者であった。

愛機の購入が実現したので、早速撮影した。最初の被写体に選抜されたのは、大学時代の親友F氏。彼とは本当によく飲んだ。彼のお宅にもよく呼んでいただき、お母さんに散々ご馳走になった。彼は武道の達人で、寮にクーデターの兆しがある折には、武力制圧に力を貸してくれて、政権維持の一番の功労者であった。

カメラマン勘太郎の復活②

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年7月29日

この燃えるような後光によって正常な判断力を失ってしまった私は、すでに、「とにかくこのカメラを買う」モードに突入しきっていた。その時私に残されていたのは「少しでも値切る」という、生まれついての本能だけであった。本人はよく覚えていないが、その日連れていた九産大出身の新人君の証言によると、「ああ言えば、こう言う」ヨドバシの店員さんを相手に、カメラの知識もないくせに、粘りに粘って、まるで何者かに取り憑かれたような形相で値切っていたらしい。私が言うことの半分以上は、訳の分からぬことであったらしいが、「このカメラが欲しい」「少しでも安く」「何ならただでもいい」という熱意だけは、この結末を見届けようと取り囲んでいた周囲の皆さん方にも充分伝わっていたらしい。交渉を始めて一時間弱、私としては相当不満も残りはしたが、こちらが折れに折れて?無事交渉はまとまり、私は、十数年ぶりに愛機を手にした。いくらで買ったかは、よく覚えていないが、ケース、ストラップ、ストロボを付けてもらって、3万ちょい払ったような気が・・・。「カメラマン勘太郎の復活」であった。3代目の愛機は、「三つ子の魂、百まで」の教え通り、やはりリコーの製品だった。

レンズはリケノン35m f2.8 蓋を開けるとレンズが飛び出す、ミノックス35型と同じ感動的メカニズム。

レンズはリケノン35m f2.8 蓋を開けるとレンズが飛び出す、ミノックス35型と同じ感動的メカニズム。

収納時はフラットに。携帯電話と比べてもこの通り、当時としては超コンパクト&超軽量

収納時はフラットに。携帯電話と比べてもこの通り、当時としては超コンパクト&超軽量

カメラマン勘太郎の復活①

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年7月18日

勤めに出て2年半程経った頃、その頃私は都内某印刷会社の寮にいたが、先輩を差し置いて、すでにその寮のボスの座に納まっていた。ふと、出世した自分の姿を田舎のお袋に見せてあげたい衝動に駆られた。考えてみれば、高校を卒業し、学生時代を含めた6年間の写真と言えば、クラブの合宿風景以外は皆無であった。

学生時代の写真と言えばこの類いのものしかない

学生時代の写真と言えばこの類いのものしかない

東京でのこの「栄光の日々?」は、ぜひとも記録に残しておきたい。小学生の頃見た、高崎山のボス猿の写真が脳裏を過った。「カメラを買おう」生まれて初めてそう思った。ボーナスを待ちきれず、貯蓄を一部取り崩し、師走の雑踏の中、その頃よくTVのCMで見て知っていた「ヨドバシカメラ」へ行った。その頃の自分の趣味と言えば「読書と貯蓄と親孝行」であったため、給料は安くとも貯金は沢山あった。しかし、10年以上カメラから遠ざかっていたし、何せ自分でカメラを買うのも初めてなので、大いに不安であった。丁度その年の4月に、福岡の九州産業大学写真学科を卒業して入寮してきた新人がいたので、これ幸いと、ボスの地位を大いに利用して、強制的にそいつをヨドバシに連れて行った。「ピント合わせ不要で、自動巻き上げ、予算4万円以内」。これがその新人に課した条件であった。当時発売されたばかりの、キヤノンの「オートボーイ」なる製品が人気だったらしく、そいつはよく吟味もしないで、いきなりそれを薦めた。しかし今になってよく考えてみると、確かにオートボーイは、自分が出した条件「ピント合わせ不要で、自動巻き上げ、予算4万円以内」にぴったりで、彼は実にいい仕事をしていたのであった。が、なぜかオートボーイは気に入らなかった。「定価4万円越え」と、「当時結構人気=みんな持っている」の2点に加え、おそらく無骨なデザインが気に入らなかったのではないかと思うのだが、本当のところよく覚えていない。

残念ながら購入に至らなかったキヤノン オートボーイ

残念ながら購入に至らなかったキヤノン オートボーイ

あれこれ談合していると、見かねた店員さんがリコーの製品を薦めてくれた。小学生の頃の愛機「リコーオートハーフS」により、「技術のリコー」として私の胸に深く刻まれた、あの「リコー」の商品であった。見せられた瞬間から、すでにカメラには後光が差していた。(つづく)

ヨドバシの店員さんが差出したリコーのカメラには燃えるような後光が差していた

ヨドバシの店員さんが差出したリコーのカメラには燃えるような後光が差していた

空白の10年

| by 飛びっちょ勘太郎 2013年7月14日

リコーオートハーフを買ってもらってから一段と写真熱は燃え上がり、四六時中カメラを持ち歩き、何かにつけて撮影した。しかし今思い出しても、お世辞にも良い写真と言えるものはなかった。「一体何を考えて撮っていたのか?」おそらく何も考えてはいなかった。多分、「何かが写っている」「自分に撮れた」というだけで嬉しかったのだろう。

何を撮ろうとしていたのか

何を撮ろうとしていたのか

小学校6年生も終わりに近づいた頃、ひょんなことから自宅で伝書鳩を飼うことになった。そのうちに、朝に夕に伝書鳩の世話をすることとなる。中学に進むと、クラブ活動で毎日扱かれた。カメラのことはすっかり忘れた。普通に考えると、飼っている伝書鳩を写真に撮るとか考えそうなものだが、そういう気持ちに全くならない(なれない?)のが私の最大の弱点である。中学から大学を卒業するまでの10年、正確に言うと、勤めに出てからの2年を加えた12年間、全く写真を撮らない日が続いた。カメラにもあまり興味を示さなくなっていた。

悪い従兄に苛め抜かれる弟の姿を冷酷にも平然と撮り続けた勘太郎の報道カメラマン魂

悪い従兄に苛め抜かれる弟の姿を冷酷にも平然と撮り続けた勘太郎の報道カメラマン魂

(本当は、写真部の連中が写真を撮ったり、現像したりしているのを見ると、つい話に加わりたくて、部室に遊びに行ったりしていたのだが)当時「文化部の連中=軟派」という偏見に満ちていた自分としては、バスケをやめて写真部に転向する気にもなれず、「その連中に教えを乞うなどは以ての外」という間違った、つまらぬプライドが邪魔をして、私のカメラマンとしてのキャリアは、わずか5年で幕を下ろしたかに見えた。おかげで、大切にしていた「リコーオートハーフS」もその後行方不明となったままである。今になって、機種名もわからないあの初代の愛機、そして2代目の「リコーオートハーフS」が愛おしくて堪らない。

コニカⅢA購入がよほど嬉しかったとみえて、床屋の鏡に映る己の姿を撮影して喜ぶ若き日の親父

コニカⅢA購入がよほど嬉しかったとみえて、床屋の鏡に映る己の姿を撮影して喜ぶ若き日の親父